5097923 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

山ちゃん5963

山ちゃん5963

12.小学友達13.冬ダルマ

十二、東小学校の友達
ワシの通った小学校は氷上町立東小学校だった。入学は昭和三十二年四月だった。学校の校庭には桜が満開だった。母と入学式に行った。学校は東幼稚園からの引き続きであったから同じ友達がほとんどだったのう。
東小学校校歌『みどり明るい 城山の 山ふところに 抱かれて 集うひとみも すこやかに 希望あふれて 学びます 楽しい 楽しい 東小学校』なかなかワシの小学校らしい楽しい校歌やのう。
一クラス三十六人で二クラスあった。合計七十二名。仲が良かった友達は、
1 前川(いつも卓ちゃんとは背の高さで前から一番二番を争った。つまり背が低かったのだよ。なんとなれは、ワシゃ三月三十日生まれでクラスで一番年齢が若かったんやぜ。ワシが入学した時は六歳になったばかり。しかしほかの友達等はもう七歳の背の高い一年生もおったぜ。六歳と七歳では体格に格段の差が出るからのう。ワシゃ早行きで良かったと思うているよ。なんせ皆より一年早くから世の中の為に尽くせたのじゃからのう。今の時代平成輩は世の中の為に尽くすよりは、自分が遊べれば良いといってとんでもない輩が多いぞや。ワシらは世の中の為に尽くすように生まれてきたんやからのう。卓ちゃんの家は前川洋品店。母さんはふっくらした上品な人じゃったのう。しかし大の仲良しの卓ちゃんは、もう癌で亡くなってしまったのう。享年四十七歳だった。卓ちゃんは、氷上町役場で頑張って世の中の為に尽くしておったのにのう。何癌やったのか?ワシは聞いてはいない。今は天国におる。妻子は石生に生きておる。卓ちゃんの兄上は前川健治ちゅうて泰俊兄と同級で、ヤクザやっとったのう。その次は氷上交通の運転手やっとった。今は何しとるのやろうか。)
2 山本(よっちゃんは切手収集の友達だった。あのころ小学校では切手収集がはやっとった。よっちゃんと石生郵便局に一緒に買いに行った。切手は一枚十円もした、これは子供には大金だった。ワシは小使い銭で買うていた。こずかいは月十円だった。つまりこずかいその全部の金を切手収集につぎ込んだ事になる。またよっちゃんと切手交換もした。ワシらが子供の頃よっちゃん家は山本青果店をやっとたが、今は山本水道工事店の社長を元気にやっとるぜ。たいしたもんじゃないこ)
3 池上(ひろし)とは、くぎたて遊びをしたなあ、今はニッサン自動車販売柏原支店の支店長やっとるよ。このあいだ石生駅で出会ったのう。元気じゃった)
4 伏田(しょうちゃんとサボテン集めしたなあ、しかし、かわいそうに、いつのまにか自殺してしまったわい、ワシには助けてやれなかった、何を悩んでおったんやろか?いまだにワシは知らない。今は天国におるであろうのう。天国でも悩んどるんじゃろうか?かわいそうにのう……・・)
5 吉垣(ワシを好いとったが、家の事情で転校していった。それ以降なんの音沙汰無しだ。ほんまや。)
6 吉住(夏の暑い日に、ワシが小学校から帰りよったら、国道沿いの自宅で白いシュミーズ姿のまま手を振っていたなあ。ワシ達のクラスで一番賢い女の子だった。ワシよりも数段賢こかった。ほんま賢かったのう。今は嫁はんやっとるんやろねえ。)
7 荻野(石生地頭の散髪屋の息子だ、文康さんの兄さんが散髪屋を継いだがもうすでにお亡くなりだぜ。文康は三田におるぞ。年賀状が来る。)
8 森田(たけしは石生新町の森田家具店の息子)
9 伊田(南町の散髪屋の息子、もうすでに他界した。)
小学二年の担任は横谷先生でおなご先生じゃった。ある時、横谷先生が算数のテストの採点をしておったんじゃなあ。わしはなぜか先生にインクをかけてしまった。横谷先生が泣いて『私のいっちょうらの洋服になんてことするの』と言って泣いてしもたなあ。ワシが悪かったのかい。いまとなってはその原因もその結果も忘れてしもうた。横谷先生ごめんなさいね。許してね。
人はなぜこの世に生きて来て、またこんなに早く死んでしまうのがいるのだろうか?たれか知っとるこ。それは、子孫繁栄のためなんやぜ。これは皆一生懸命に学ばにゃいけんぞや。子孫はなにするのか。知っておるかい。それは子孫が決める事なんやぞ。聖書の書かれた前には『産めよ増やせよ』といった時代もあった。『地に満ちよ』と言った輩もおるが、あまり皆が全員長生きしたら、地球全体が危なくなるんやなあ。人類全体の大問題になるちゅうこっちゃねえ。だから、無作為に早く死ぬ人が出るのやねえ。かわいそうじゃがそれが運命ちゅうもんやねえ。ワシ等ー、この世の人生五十年はもうすでに終了して、今は第二の人生をたまたままたこの世で送っておるよ。いま二歳じゃよ。まだあと四十八年は生きようと思うちょるけんね。応援してちょんまげやー。それから第三の人生もあるような気がするのじゃよ。

十三、だるまストーブ

冬になると、だるまストーブが東小学校の教室にはあったよ。これが朝ストーブ当番ちゅうのがあってな。当番は皆より早く登校するのだよ。持っていくものは
1 新聞紙かこくば(古く葉ちゅうのは木の葉を干したもので炊き付けに使う)
2 薪(まき)はもちやすい様に十五センチΦ*三十センチくらいの束にして縄で縛ってもちはこんだものじゃよ。
3 マッチ(昔はだるま印のマッチ)
だった。学校に行くと石炭置き場からバケツ一杯の石炭を教室に運ぶ。次に新聞紙かこくばをだるまストーブに入れる。その上に薪を乗せる。薪の上に石炭を数個乗せる。さてそこで新聞紙に火を点ける。そうすると火が一気に燃え上がり、薪、石炭に火が点く。そこでもっと石炭を入れる。そうすると、ばっちり点火成功だが。普通は同級生が来る頃に教室は暖かくなっている。しかし、ストーブの点火の下手糞な奴がおってなぁ。クラスの連中が学校来てもまだたき付けの最中でな、『ふー、ふー』一生懸命空気をおくっとる。『火吹き竹』を使えば一発に燃えるのに。しかし、教室の中は煙りだらけで寒い寒い、いやー、大体点火の下手糞な奴は決まっとったぞ。その名は言わないが。いや、ワシは上手じゃったぞ。皆が教室に入ってきたらもう暖かくなっとった。たまに、下手糞な奴に煙突の掃除をする奴がおったわい。そうすると朝から机の上は煤だらけ、おまけに煙たい、寒いと、とんでもない一日が始まる事があったなあ。また、雪の日は石炭に雪が積もっておってな、雪も一緒に教室に持ってくる奴がおってな、そりや雪と石炭をだるまストーブに投入したら火は消えるぜ。誰でもわかる事を、まったくその理屈のわからん奴がおったよなあ。まあ小学生の頃の話だわい。ストーブの廻りには柵がしてあっての。昼になる前から、弁当をその上に乗せるのだわい。そすると、昼食べる時弁当が暖かいんだわ。今なら電子レンジで『チン』するところだなあ。その当時はそんな便利なもんはない。あたたかいほかほか昼弁当、ごちそうさん。ワシの弁当箱はアルミ製四角の角がとってあった、蓋の上に登山の絵が描いてあったのう。中身はだいたい
1 玉子焼き
2 たくあん(なぜか教室に匂った)
3 梅干し(アルミの弁当に穴があいたが、なぜ穴があくのか知っとるこ?それはのうアルミニュームは酸に融けるからじゃよ。梅干しは酸性じゃからのう。どうや、理解できたこ?できなかったらもう一回小学生やれよ)
4 ワシの家は麦飯じゃったなあ。母はお釜の中の麦の少ない部分をお弁当に詰めておったよなあ、確か。
同じクラスの女の子はなぜかほとんど全員弁当箱の蓋で中身を隠して食べとったねえ、あれは中身が貧しかったのだろうか?それとも気持ちが貧しかったのだろうか。両方かも知らんが、ワシにはわからんのう。しかしあのころ昭和三十年代、皆本当に物質的に貧しかったぜ。今とは比べ物にならん時代だったぜ。しかし精神的には今より格段に裕福じゃったと思う。なんでやろうか。さてストーブ当番の大切な仕事、それは授業終了後のダルマストーブの掃除。これが大切なんじゃ。たまにストーブに火が残っとってのう、なかには、ストーブに水かけるばかな当番がおったもんじゃ。そうすればそりゃ大変じゃった、教室は灰だらけ。結構毛だらけ、猫灰だらけだった。たまにダルマストーブ水かけて割るやつがおったぞ。ほんまにあほかいな。次に日からストーブ無しじゃーないかい。

あの頃は良く雪が降った。朝起きたら屋根に雪が二十センチなんてことはざらにあったのう。昔は寒かった。今は暖冬が多いのなぜかい?これも地球温暖化ちゅうて『茶々』が詳しいぞ。なぜかワシにも教えてちょんまげ。ワシは子供の頃よく雪でうさぎをつくったぜ。目は南天の実を使い、耳は南天の葉っぱをつかい、後は白い雪をおぼんに乗っけて形を整えた。ワシはまた雪をお茶碗に入れて、それに砂糖を加えて混ぜて食べた。かき氷みたいなもんだ。うまかったのう。また虫眼鏡で雪の結晶の観察もしたなあ。大体六角形で非常に美しかった。なぜ六角形になるのか?諸君知っとるこ?調べてくれい。泰俊兄はいつも雪だるまを作っていたなあ。雪をごろごろころがす。降り立ての雪は雪玉にならへんよ。なぜか、くっつかないのだわい。さて直径一メートルくらいの大きい雪玉と直径半メートルくらいの小さい雪玉を二つつくる。小さいのを大きい上に乗せる。目はたどん、口はたどん、鼻はたどん、帽子はバケツ、手は箒(ほうき)やったなあ。雪だるま作りのあとは、雪合戦じゃった。ワシは背中に雪玉をいれられて非常に冷たい思いをしたもんじゃ。

兄は図画工作が好きでいつも何か賞をもらっとったなあ。兄はマッチ棒を使いセメダインで接着して『東京タワー』を作っていたなあ。いやーそれが、本当に本物そっくりだったなあ。あれはきちんと設計図をこしらえてから作るんやで。へたな奴は東京タワーがひねくれるんやで。誰かが設計図通り人間を創造したようにきちんとした設計図をつくればいいんやぜ。ワシは兄の東京タワーに対抗して英国のロンドン橋を作った。もちろん設計図を作ったんやぜ。まあまあの出来だったのう。ロンドン橋は真ん中の橋が開くのや。東京隅田川の勝鬨橋と同じしくみやねえ。これは夏休みの工作宿題になった。たしか金賞やなかったかい。さて、あのころ県道沿いの井本としのぶさんは工作がものすごく上手で厚紙で高層ビルを作っていた。色も塗って最高の出来栄えだった。窓にはガラスもはまっとた。そのガラスは実はセロファン紙だったが、ちゃんとガラスの窓らしくなっていた。そのビルの工作はワシがいただいたのだ、が、その頃からワシは本物の超高層ビルを作りたいと思っていたわいなあ。ほんまやぞ。
お正月にはコマ回し、たこあげ、すごろく、福笑い、トランプなんかして遊んだなぁ。その中で凧上げじゃが、泰俊兄は凧糸自動巻き取り器を作っていたなあ。それは確か蚕さんの糸巻器の歯車を二個組み合わせて作っていた。ハンドルを回すと人が糸を巻く三倍のスピードで糸を巻く事が出来るのじゃよ。まあたいした工作上手じゃったのう。ワシの場合は普通の手巻きじゃし、おまけに凧の糸が切れてしまって、北野から地頭ほれから新町の方へ飛んでいってしもうたわい。ワーン。
さらには、夏休みに泰俊兄は地球儀を解体して、丸い潜水艦を作っていたなあ。乾電池を使用してスクリューが回り、水中を進むように出来ておった。嘉兄はお池で水泳、泰俊兄は潜水艦で遊んだ。さていよいよ潜水艦の進水式じゃ。さあいくぞ。地球儀潜水艦出発進行。しかし、しかし。潜水艦はそのまま池の中に沈んでしまって、再び日の目を見る事はなかった。こんどは泰俊兄が『ワーン』

県道はまだアスファルト舗装がしてなかった。県道沿いの家(井本としのぶ・足立公・足立はな・高田勇)は車が通ったあとのどろはね掃除で大変だった。晴れた日は晴れた日で砂ぼこりがくるので、水撒きしとったしな。その点ワシの家は県道からかなり上のほうだからそのたぐいの問題は全く無かったよのう。

この頃はラジオしかなかった。中に真空管が三本はいったラジオがわれわれ子供の楽しみだった。『まぼろし探偵』を知ってるかい。『赤い帽子に、黒マスク、黄色いマフラーなびかせて、オートバイが空飛べば、事件の起きたー、時なのさ、いくぞ、それ、みんなの味方だ、まぼろし探偵』まぼろし探偵は兄の得意中の得意で非常に上手に黒マスクを作って変相して遊んだ。それからマレーの虎、『怪傑ハリマオ』を知ってるかい。『真っ赤な太陽、燃えている、はかない南の大空に、轟きわたるこたけびは、ハリマオ、ハリマオ、僕らーのハリマオ。』あのターバンにサングラスも得意中の得意だったなあ。最後にサタンの爪、これはワシで『月光仮面』は兄じゃったなあ。『月光仮面のおじさんは、世界の味方だ良い人だ。』黒井で見た映画のサタンの爪の時月光仮面のももひきのひざボンに穴があいとったなあ。はははは。それからワシが怪人二十面相で、兄が明智小五郎やっとった。ワシはいつも悪役やっとった。もうかなり昔の話じゃのう。ワシが一番好きだったのは手塚治虫の鉄腕アトムじゃった。なんかしらんワシゃ髪の毛がアトムみたいでアトムちゃんなんて言われとった。それからカウボーイものがはやっとった。保安官ワイアットワープとか兄は拳銃ホルダーを上手に作って遊んでいたなあ。拳銃ホルダーの色は紺色でかっこよかったなあ。

十三、左手薬指の切断

小学校から帰るとワシはいつも家の手伝いをした、家は農業、畜産業、林業をやっておった。田植え時は農繁期ちゅうて小学校は休み、皆で田植えした。じいちゃん、ばあちゃん、父、母、兄達、そしてワシじゃよ。昔は耕運機、田植え機なんてないんじゃ。全て牛にて鋤き込み(これは父の仕事じゃった)、しかし、山口家の牛は乳牛(ちちうし)だから田鋤きはいやそうだった。乳牛はのたりのたり、止まっては小便する糞する『じゃばじゃばじゃば』『ボチャン』『ボチャーン』、父は『くそー』ちゅーて牛を蹴飛ばしておった。それからぶとが飛んで来て牛にとまり、こいつは牛の血を吸うやつだ。牛は尾っぽをふりふり『ぶと退治』をやっとたわいなあ。牛の目には涙がたまっていたように見えたが、あれは涙目じゃったのかい?父は毎朝五時起きで、ホルスタイン乳牛の乳しぼりだ。もちろん手絞りでのう。『絞る前に暖めるとよくお乳が出る』って言いおったのう。父はホルスタインがおるから毎日毎日乳絞りで旅行にも行けんかったのだ、それから酒飲んで朝帰りでも、明くる朝早くから乳絞りで大変じゃったんだなあ。
さてこの頃の田植えはどこの家も手植えだわ。田植え知っとるこ?田植えには赤ぽちのついた定規を使ってキチンと等間隔に植えるのだ。これは丹波地方独特の田植えだった。なかなかおもしろいんだが、中腰で田植えをするから腰が痛うて痛うてたまらんじゃったのう。百姓のおばはんが腰が曲がってしまい、おばあさんになるのはワシにはよくわかるなあ。だってさ、一年中中腰で野良仕事しとるんだもんな。松村のおばあちゃんも、上のやす子ねえちゃんなんか完全に腰がまがっとったなあ。九十度以上まがっとった。しかしワシゃ田植えを頑張ってしたぞい。たんぼにはおけらが泳いでおって、よくそいつをつかまえて遊んだのう。また田んぼには牛の糞が浮かんでおったり、また牛が小便した泡のあとがあったり、まああまりきれいではなかったぞ。しかし、今の化学肥料よりええのではなかったかい。なんとなれば、土の中で生きていた小動物達が化学肥料の場合死んでしまうんだものな。また除草剤は最悪さね。小動物は全滅じゃけんね。確かほぼ一日仕事を、ワシら三日ほど続けてしたような記憶があるなあ。ワシゃ田植えの途中の休みが楽しかったぞや。また昼ご飯がうまかったのう。何も無いがおにぎり(梅干し入り)とお茶だったように思う。その梅干しはまつゑおばあちゃんが自分で作った梅干しで特にうまかったぞい。また田んぼには真っ黒な『ひる』がおってのうこいつが食いつくと人間様の血を吸いやがるんだ。そいつを引っ張って毟り取るのだが、なんか足にくらい付いておったぞや。今でもおるのではないか。こわいぞや。
田植えが終わると、次は『田の草取り』ちゅうのが始まるんじゃ。一緒に稗抜きも行うのだ。田の草取り機ちゅうのがあってな、ちょいと説明すると、先に草取り用の羽車がついとってな、この羽車が田んぼをごろごろところがすと田の草浮き草を土に押し込み除去するしくみだわい。羽車から持つ部分(ハンドルじゃねえ)が伸びておるのだ。だから田の草取り機を田んぼの中でごろごろごろごろと押し回す人力機械だわい。これは母の仕事だったなあ。真夏の暑い日中ご苦労さん。今は皆除草剤を散布した結果、蛍もとんぼのやごもほとんど死んでしもうたわい。一時なんか生郷農協がヘリコプターで除草剤を散布しておったぞい。ありゃ昆虫の大敵だったなあ。その日は『窓を閉めて外に出ないようにしてください』といわれたが除草だけでなく殺虫効果もあり、人間にも影響があったはずだわ。あれで病気になった人はおらんかったかい?生郷農協のあほたれが。
二百十日も過ぎて稲穂が実ると、次は稲刈りだわい。今でこそ稲刈り機が活躍しておるが、その当時はギザギザの歯の付いた鎌で稲刈りしたのだ。ワシゃ小学生、さあ、今日は頑張るぞ。『えいやー』と……・
ザク『痛―い』
なんと左手の薬指を切ってしもうた。中の白い骨も見えとる。今でも残る薬指の傷あと、ああワシの青春の前の少年時代の傷よ。ワシ等なんと思い出の多い事よ。

『石生』と書くのはこのあたりに石が採れたからじゃ。砕石場があって石生足立組がそのハン場を取り仕切っていた。母は農閑期には石生砕石にて働いていた。上の足立やす子さんと一緒に働いていた。足立はなさんも一緒だった。ダイナマイトで岩山にハッパをかける。『ドカーン』その砕石をじょうれんでミーに集める。それをベルトコンベアーに乗せる。そういう仕事じゃ。この砕石は国鉄の鉄道にすべて敷かれたのやぜ。ワシらいまでもJRで旅しとるがの、JRの鉄道の敷石は石生の砕石が使われておると考えたら旅好きになるじょー。そのころ母玉枝も若かったのじゃなあ。しかしこれで現金収入があったからなあ。よかったのう。また電気のステップルをムカデに通す内職仕事もやっとった。ワシも良く手伝って十円とか二十円とかもらったもんじゃよ。
秋には松茸共同山があってのう、ワシは親父と一緒に松茸山に登った。そうするとこくばがこんもりしとるところがあるんじゃ。そのこくばのこんもりをちょいとよけるとそこに松茸がひっそりとある。たまに開き松茸もあった。またワシが小さい時は親父が自分で探して『その辺にあるじょー、頑張ってさがせやー、』『あった。あった。見つけた』なんて楽しんだものじゃ。この松茸とうらじろと一緒に持って山からおりた。昔は農協に売りに行ったのじゃ。いくらだったか知らないが、まあ、そこそこの金になったのではないかいな。たまにはわるい奴がおっての、共同山に勝手にはいって松茸を失敬しとった。まあまあごくまれなことじゃった。最近はとんでもない輩がおるぞや。桃盗人。梨盗人。米盗人。田んぼの立ち稲を刈り取る盗人。ああ世も末じゃのう。なんとかもっといい世の中にしてくれい諸君。



© Rakuten Group, Inc.